ホビーというカテゴリーの割にはなかなか深そうなタイトルではございますが、今回は『趣味』の話じゃなくて『趣味にまつわる話』ということで。
まず私自身、趣味を持っているかと問われれば、たとえ就職面接の場であったとしても胸を張って「イラスト(マンガ絵)作成と私小説(ほとんどファンタジー)執筆」と答えますし、実際、そう答えてきました。なぜならそれは何ら恥じるべきことではないからであり、人の趣味をとやかく言われる筋合いはないと思っているからです。
んで、面白いことに数多くの面接官はそこに興味を持ち、その部分で熱心に話され、常に高い評価をしてくれていたのが印象に残っています。(事実、今の会社はイラストとも小説とも関係ない会社ですけどそれで採用されたようなものでした)
私なりに何故、その趣味の受け答えが高評価を得たのかを考えたときに思い至ったのは、イラストにしろ小説にしろ『自分で白紙の状態から創る』からではないか、ということです。それはすべて自分で考えなければならず、極端な話、読書、映画鑑賞、音楽鑑賞と言った、与えられたものを見るだけで何かを考える必要性が乏しいものに比べれば、逆に(ある意味)崇高な趣味だと思われたのではないかと推測しています。そもそも読書、映画、音楽といった趣味は単に当たり障りのない模範回答でしかありませんしね。それで個性を訴えるのはなかなか難しいのでしょう。
『思考する』、『創造する』するという行為はなかなかできるものじゃなくて、たいていの人は仕事でもない限り、人任せにしているところがあるのではないか、とか思うのですがどうですかね。
さて、そんな趣味の中で一つ、小説執筆についてでありますけど、これはおそらく、私的には、この趣味を持っている人は相当ものを考えることが習慣化しているだろうなという推測を持ってますし、また普段から物事を多方面で捉えているのではないかと思ってます。
事実、私の知ってる小説書き趣味を持っている人で選挙権を持ち、ちゃんと投票に行く人の大半は(嘘か本当かは確認のしようがありませんが)2005年の総選挙で自民党に
投票しなかったのです。
むしろ、小泉の掲げていた郵政民営化の裏を読み取っていたほどでした。
これは何故、こういうことが起こるのかと言いますと単純明快で、物書き趣味の人は情報というものを多方向から見るよう心がけ、また習慣付けているからです。趣味ですから誰に媚びるわけでもない、何かに従う訳でもない、そして締め切りがある訳でもない。
それこそ自分の創りたいものを創るのですから(正確には文章表現というところでありますけど^^;)妥協なんて存在するはずもなく、また物語には多数のキャラクターが登場する訳でそれぞれの立場も考えなければならず、となれば常に多方向から物事を見るようになってしまうのです。必然的に。
また妥協しないとなれば、色々な資料に目を通すでしょうし、たくさんの文章を読んで表現や漢字を勉強します。趣味ですとお金に糸目をつけませんので、本当にとことんです。
下手をすれば巷のジャーナリストより調べている時もありますし、最近の新聞記者よりもうまい文章を書きます。
それゆえ、大手マスコミの扇動報道にも惑わされない、政治家の仰々しいパフォーマンスにも騙されない輩が育つのです。
だって自分で『調べる』から。
自分で、
本当の意味で『創造することができる』から。
(暴走すると独りよがりになっちゃいますけど)自分で、
いい意味で『周りに流されることを無意識に拒否している』から。
そんな私ですから、もしこの文章を読めばご本人が気を悪くされる可能性は高いとは思うのですが、それを承知であえて書かせていただきますけど。
私自身、最近少しメールでやり取りした、とある方を本当に高く評価しています。三十代半ばにして数多くの著書に目を通し、毎日多数の新聞も読んでいる雰囲気で、私なんかよりもはるかに幅広い見識をお持ちですから。
ですが、ご自身で『多方向から見る』という視点には少し欠けているかな? ちょっと扇動パフォーマンスに乗せられるタイプかな? という印象も同時に持っています。また、そういうメールの返事も来ました。内容は割愛させていただきますけど、どこかいつも仰々しいパフォーマンスを見てしまうと集団心理に引っ掛かり思考停止に陥って同じような過ちを繰り返し、ずいぶん経ってからまた同じような後悔をする、という風に映るような内容の。
それがなんとも残念だな、なんて少し感傷的にもなったりして。
今、これを書いたのは朝ですから夜にまた何か書くかもよ♪
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