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GW真っ只中だと言うのに、私の気持ちは沈みまくっているし、ともすればダークサイド突入寸前だ。
と言っても、それは別に現在の社会情勢がそうさせているわけではないし、仕事で嫌なことが――無かったとは言わないが、んなもん、誰しもが抱えている程度のことだからそれくらいで沈むわけもない。
いちおー私は、周りから見ると、忍耐強い方らしいし、私自身はそうとはまるっきり思っていないんだけど、お人良しなくらい優しい性格をしているらしい。
つっても別に聖人君子のつもりはない。
腹立たしいことがあれば憤慨するし、嫌なことがあれば拗ねることもある。
しかし、現在の私を取り巻く、とことん身近な人間関係――すなわち、血縁という人種によって、力いっぱい気持ちが沈み込んでいるのだ。泣きたいくらい辛い、ってならまだマシだろう。
ところが今、私の内にあるこの感情は明らかに憎悪だ。
そうなのだ。今の私は、本来、もっとも信頼できるはずの血縁、しかも親兄弟という連中によって人間不信に陥ってしまっているのである。
何があったかというと、総括して言えば、私にすべての負担を押し付けて自分たちは自分のやりたいことを好き勝手やってのうのうとしている、ということだ。
それが立て続けに起こって、完全に自暴自棄寸前だ。昨日から朝にかけての分は、やっと少し落ち着いてきたのに、バカ親が追い討ちをかけてきたんで、本気で何もかも投げ出したくなってしまっている。
何があったかは内輪の話になるんで割愛する。
素数を数えているわけじゃないけど、「落ち着け」と言っている自分と「ふざけんな」と言っている自分が鬩ぎ合い、均衡状態で現在、平静を保っているとでも言おうか。
本気で時々、思う。
どうして私だけがすべてを我慢しているのだろうか、と。
前にも少し言ったけど、私は妹と甥っ子の三人暮らしだから給料は生活費になって消えていくので、ほとんど自分で自由に使えるお金はない。
その無い中から、ネット接続料、携帯電話料金、ガソリン代、散発代、自動車税、車検、自動車保険、生命保険と払っているわけで、好きなものを買うこともやることもすべて我慢している私を横目に、妹は湯水のごとくお金を使いまくっているし、これはつい最近知ったんだけど、別居中の父親は借金の返済に家のお金を使わせたし、再婚した母親は私の知らないところで私名義の通帳から(銀行も本人確認なしで渡したと思うが)実に300万円を引き出していて、よく、親兄弟を大事にしないといかんよ、と言う人は多いけど、上記お金の使い方は一例ではあるが、これでもすべてを許容し、わたしが我慢しなくちゃならんのか、という思いを抱く。
言っておくが母親が使い込んだ300万は私並びに現在住んでいる私の家には何の恩恵も無かったものだ。それは断言してもいい。再婚先の家で使い込んだものだということははっきりしているのである。


この世に生を受けたことには感謝しているが、だからと言ってすべてを許せるかと言うと話は別である。
許せることと許せないことがある。
親を選ぶことができない子供は、理不尽ではあるが、本気で不幸だと思う。
誰だって、まともな両親から生まれたいだろうに、中には私か、私よりも辛い思いをする羽目に陥ってしまう両親の元に生まれてしまう人もいる。
そんなとき、そういう人たちは誰かを信用したり頼ったりできると思うか?
答えは否なんだ。
なぜなら、一番信用できるはずの血縁に裏切られてしまっている以上、その他の人たちを信じれるわけがない。
親友がいる人がいれば、友達がたくさんいる人もいる。
でも、そういう人たちはごく普通のまともな両親から生まれたからそうなれるのであって、そうでなければ友人をほしいとも思わないし、孤立して自分の殻に閉じこもってでも周りと隔絶したがるものなのだ。
むろん、これはあくまで私の持論なのだが。
友達ができるときも、やっぱり自分と同じ境遇の人じゃないと分かり合えないところがあって、まともな両親の元で育った人たちと、私は相容れることができなかったし、たぶん、これからもできない気がする。


マジで疲れた。
私は小心者なので自殺する度胸は無いが、自暴自棄寸前であることだけは自覚している。
先ほど、この世に生を受けたことに感謝している、とは言ったが、今の精神状態の私だと「どうして私は生まれてきたんだろう」と嘆息してしまっているのだ。
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私は散々、大手マスコミが発表する『世論調査』とやらはまったく信用に値しない、と公言して憚らないわけだが、その根拠となる一端を最近、見ることができたので、自分自身の考えが正しいかどうかは別にして、少なくとも『世論調査』が信用ならないことを再認識できたことがあった。
つい二ヶ月前ほど前には「小沢はけしからん」「小沢は悪いことをしている」などとのたまっていた、ここが一番ポイントになるけど、とある『団塊世代』の人の認識が少し変わっていたのだ。
二ヶ月ほど前と言えば、石川議員が難癖で拘束されて、小沢幹事長の4億が不記載だったとか、記載があったことが分かれば出所が分かりにくいたら、水谷建設から賄賂を受け取っていたら、20億の資金がどうたらといった、景気対策が最優先課題で予算の早期成立が焦点の通常国会最中だというのに、大手マスコミと検察がグルになった、フィクションの駄文小説を毎日毎日飽きもせず垂れ流されていた頃だ。
つい最近、話すことがあった『団塊世代』の人も、新聞テレビを鵜呑みにして、小沢=悪人と言う気勢をあげていたわけだが、二月に入る前には不起訴になってしまい、そこでようやく、少しは報道に疑問を持つことができるようになったようである。
それはそうだろう。
あれだけ、推定有罪のフィクション放送を流されていれば、新聞テレビしか知らない純真無知な団塊世代は間違いなく鵜呑みにするわけで、あの報道が事実だとするならば絶対に不起訴になるはずがないのに、なったのだから疑問を感じて当然だ。
それともう一つ、実のところ、今年に入ってから石川県内で立て続けに裁判員裁判が行なわれて、県内ニュースでは大々的に取り上げられていたんだけど、いつ、自分が裁判員に招集されるかもしれないという意識を持ったためか、ニュース報道に対する見方が変わったそうである。
この前も言ったけど裁判員制度は、素人と言うか一般市民が司法の場で人を裁くのである。法律的な知識はほとんどなくても、人を裁く以上は、情報は多々あることを望むし、原告被告双方の言い分を同じくらい聞きたいと思うのが当然なのだ。
ところが、小沢氏の件は推定有罪の報道がされていた。裁判員裁判が県内と言う身近であっただけに、「これでは自分は裁けない」と思ったようで、むろん、小沢=悪のイメージを払拭できたわけではないだろうけど、少しずつ、検察や報道に対しても疑問を感じるようになったそうだ。


要するに『状況とか憶測で判断してはいけない』という風に思ったとのことである。


決定的な証拠を見せられない限り、起訴した検察や警察が言っていることが正しいかどうかということも疑って見るようになったって言ってたし、新聞テレビの有罪断定報道にも「いい加減にしてほしい」と漏らしていたのである。
これは実に良い傾向だと思う。
裁判員制度に関して言えば、私も司法改革のポーズにしか見えないんだけど、それでも、世の『事件』や『疑惑』に対して見方が変わる人が増えるのは悪いことじゃないと思うし、それが積み重なれば、報道への疑問を強くなっていくことだろう。なんせ原告被告双方の言い分を同時間放送しなければならない事実さえ流していない現実があるんだからな。
それでもやっぱり、まだ『顛末』を求めていない。
去年の大久保氏や村木厚子氏の件で、あれだけ大騒ぎしたのに、検察の主張が裁判で覆ったことを知らなかったのだ。
巷で大騒ぎしたことについて、なぜ『顛末』を求めないかの疑問は前にも言ったけど、大騒ぎしたことくらいの顛末は本当に知りたいと思わないものなのだろうか。知りたいと思わないなら興味も湧くはつがないのだが、当時は気色ばんでいたのに、言われて思い出すってどういうことなんだ?
結局のところ、世の中を騒がせたことに対して大手マスコミの主張を鵜呑みにし、沈静化したら自身も知らん顔になるという、熱しやすく冷めやすいと言えば、そうなんだろうけど、風評被害の加担者であったことを自覚していないのだ。
裁判で覆ったり不起訴になったりした以上は、自分たちの思い込みが被告人を貶めていた行動だってことを、ちゃんと胸に刻み込み、反省しなくちゃいけないだろう。「新聞やテレビが言っていたから」なんてのは言い訳にもならない。ちょっと、自分で調べればいいだけなのにそれを怠っていたから風評被害の加担者になっているんだ。
風評に乗っかった以上、人の心に傷を負わせておいて、私は知らない、なんてのは通用しない。たとえ被告が知らないからと言って許されるわけがない。そのために被告が社会的に抹殺されることだってあるのだから。
もっとも、少しは考え方が変わった人がいたのはいいことだと思う。不起訴になった以上、小沢幹事長が辞める必要はないな、とも言っていたし、少なくとも私が話した連中の内、半分はそういう認識だったから、幹事長を辞職すべき、なんて答えが70%以上なんてのは嘘っぱちだ。嘘じゃないとするなら、答えたのは、いまだ、風評被害の加担者であることの自覚がないよっぽどの馬鹿者たちってことだ。


人は真実を見抜く目なんてのは持ち合わせていない。むろん、私も然りだ。
しかし、是々非々で事実を知り、自分の見解で物事を判断することはできるはずである。
小沢幹事長不起訴と裁判員制度がもたらした意外な産物。
『人を裁く』という責任の重さを自身で斟酌してみれば、偏向報道に気づき始めるのは当然の理なのだろう。
今日は久しぶりに書くことなし。
まあ、マスコミ連中に言いたいことはたくさんあるけど、僻地で叫んだところで、あんまり効果あるわけじゃないし、というか上層部の頭が狂っているんだろうけど、それはさておき。
というわけで、何で最近は社会風刺ネタが多いのかという根本的な理由を。


単純に日常に関して言えば何もないからです。( ̄^ ̄)えっへん!


んまあ平日は仕事で休日も懐具合が寂しいから、ほとんど外出できないし、というわけでここ数年、(正確にはレンタルDVDだけど)映画も見てないし、テレビも会社で見る昼のニュース以外、毎日見ているわけじゃないし、新聞なんざ会社の出先であれば見るくらいで家じゃまるっきり見てません。情報の大半はネットで享受しているということでございます。
つっても、ネットの方が情報量は多いし、偏ることなく正否の情報を得られるんでこっちの方が有意義だから、特別、不便はないかなと。
ただし、新聞テレビのみから情報を得ている連中とはまったく話がかみ合わないことが多々。
得ている情報がまるっきり違うんでどうにもならないんですけどね。


さて、ただいま、本館の新作イラスト執筆中。
これも毎年、春に掲載している野球関連のものでございます。
今年は松井秀喜選手がエンゼルスに移籍したんで、久しぶりにドラゴンズ&松井所属チームユニホームのコスプレ予定です☆
去年は結構、動いているように見える構図にできたけど、今年はどうかなぁ。
というか、最近、『動いているように見える』イラストが描けなくなっちゃったみたいです。
ふむ。もう一回、マンガをやろうかな、と考える今日この頃。
ただ、ネタがないので難しいかも……(^^;)


たまにはこんな退屈な文章もいいんじゃないでしょうか。(笑)
最近、私は日本の戦後復興に力を尽くしてくれた団塊世代以上には辛辣な物言いをすることが多くなったのは、周りの団塊世代以上のあまりの程度の低さのためである。これは私の周りだけだと信じたいところだが、はたしてどうだろうか。


さて、いよいよ明日か明後日にも小沢一郎民主党幹事長が任意聴取に応じる、という報道がなされていた。
まあ、この件に関して言えばおそらく本当だろう。普段は嘘八百を並び立てる大手マスコミではあるが、「小沢一郎、出頭」という見出しを作りたいだろうし、これが嘘だとするなら、明日になって「小沢ドタキャン」の見出しが躍るはずだ。はたしてどちらだろうか。
まあどっちにせよ、カナダde日本語様が指摘する通りで応じるべきではなかっただろう、とは思う。
ただし、私は少し見解が違う。
逮捕云々の心配をされる方は結構多いけど、まず、東京地検は絶対に逮捕できない。国会会期中の国会議員を逮捕しようと思えば、国会に許諾請求を出し、それが承認されて初めて逮捕できるからであるし、例外は現行犯だが、今回の小沢氏の件は現行犯を立証することはできない。何と言っても言い掛かりの虚偽記載は4年前の話だ。
ということは、これを破るなら法律には何の意味もないことになるし、自称法の番人の東京地検も自ら横紙破りはできないはずだ。そんなことをすれば世界中から日本でクーデターが起こり、民主主義国家を否定して軍事国家(警察国家でもいい)になったと認識されること間違いなしで、今後一切海外取引は不可能になる。
これは二番底どころの話ではなく、G8はおろか、国際会議からも締め出されることを意味し、完全に第二の北朝鮮扱いされること間違いなしだ。いや、兵器を所持していないだけに北朝鮮以下の扱いにされる可能性は高い。
無理矢理にでも利点をあげるなら、小沢一郎が国会承認なしの逮捕となれば、アメリカ軍は日本中から引き揚げるので、労せず普天間基地問題が解決することだろうか。
まさかアメリカも世界中から非難される国の擁護なんてする気はないだろう。


で、なぜ私が小沢一郎は東京地検に応じるべきではないというかと言うと、逮捕はされなくても身柄を拘束される可能性は充分にあるからである。
1991年のソ連、ゴルバチョフ大統領軟禁事件の再来の可能性だ。
なんせ小沢一郎は民主党最大実力者の一人で、その実力は世界ナンバー3と謳われ、鳩山首相より上の扱いにされているものだから、東京地検が小沢氏を人質に鳩山政権に脅しという名の圧力をかけてくることは想像に難くない。
しかし、ソ連と違うのは日本国民が相当ボケているので、おそらくは事の重大さに気付くことは無いと思われる。むしろ、大政翼賛会の大本営発表に狂喜乱舞することだろう。
現に今日もそういう現実を垣間見た。という訳で、団塊世代の利口ぶったボケっぷりの話だ。
私は何度も言っているが政治家は全員信用していないし、善と悪の判断ができるほど高尚な人間でもない。
故に、『どっちが嘘を言っているか』という観点で話をしているのだが、団塊世代はやっぱり論外で、会話が成立しない。昔、子供に「人の話を聞きなさい」と説教したことがあったとしたら棚上げ論だ。こっちの話を全然聞きやしないし、否定するのみなのだから。
で、こういう連中はテレビ新聞、検察を100%信じ切っている。
足利事件の報道が流れたときでもDNAがどうとか言い出して、今回のは自白テープが裁判所で再録されてどんな風に取り調べをやっていたかが分かるものだということを理解していなかったし、相も変わらず『関係者の話』で小沢氏の記載漏れのニュースが流れたときは、こっちが「記載もあったし、虚偽記載は『沢』が『澤』の字になっていただけ」と、誰も小沢氏が好きとか嫌いとか正しいとか間違っているとか善か悪かの話をしているわけでもないのに、それに気付かず「小沢は悪だから」の一点張りでヒステリックに叫ぶだけなのである。今回の聴取にしたって、小沢氏関連の事務所から関連企業まで大々的に検察は資料を押収していて、それでも何も見つからないから、どう考えたって面子のためだけに小沢氏に聴取を要請したのを「今まで渋っていた」だの「巧妙に隠している」だの喚き散らす次第である。本当にアホかと言いたい。人に「あなたは小沢のファンだから」とか言っていたが、そっちこそ好き嫌いで話をしているだけじゃないか、と心の底から呆れ果ててしまった。
「根拠は何ですか?」と聞くと「新聞テレビが言っているから」とか「新聞テレビがそんな証拠なんて報道していない」だからもう何をいわんや。
マジで馬鹿に付ける薬は無い、である。新聞テレビが正しいと思っているから救いがない。もはやテレビ新聞は情報媒体の一つにしか過ぎず、絶対の時代ではないのである。そのことさえも分かっていないのかそれとも自分の無知ぶりを曝け出したくいない強がりかなのか。
「なら小沢一郎はどんな悪いことをしたんですか?」という問いには「政治家はみんな悪」だの「裏献金を受け取っていた」だのだ。献金に裏も表もないと思うし、ならそれで堂々としょっ引けばいい。あれだけ資料を押収しておいて証拠を掴めないんだから検察が無能なだけだろう。もし掴んでいるなら任意聴取ではなく逮捕状を小沢氏に付き付ければいいだけだ。
それに当時、小沢氏は野党議員であり、絶対にあっせん利得や贈収賄はあり得ない。予算決定権を持つ与党議員なら手心を加えることはできても、野党議員にそんなことできるはずがないからだ。
こんな簡単なことも想像できないのだから、脳みその代わりにウジが詰まっているんじゃないか?
てことで、こっちは思い込みでも何でもない証として物的証拠である総務省の収支報告書に記載がないかどうか見ようじゃないかと、インターネットで検索して、記載があったことも『沢』が『澤』になったところを見ても、まだ頑なに否定するのだから始末に負えない。
しかも理由が「小沢ならハッキングして書き換えられる」だの「誰かが作ったって話だ」だの言っているのだから、どっちが憶測で喚いているんだか……である。
だいたい、記載がなかったことしか聞いてなかった奴が、それを見た途端、これも誰かが作ったって話がある、なんて誰が信じるものか。
ハッキングにしたって、なら総務省か東京地検が発表すればいい。ハッキングの管轄は防衛省だ。総務省も地検も関係ない。何と言っても縦割りだからな。しかし、私はそんな情報を聞いたことがないし、こいつらの大好きなテレビ新聞も言っていないはずだ。
ホント、これでは70年前とまったく変わらないし、これから訪れるかもしれない世界からの孤立化という現実に気付いていないことになる。


まあ、こういった連中は我が身に不幸が降りかかるまで、現状の何が危ないのか、ということに気付くことはない。もちろん気づいてからでは遅いのだが、その時は何と言い訳するのか、少々楽しみでもある。
今日は文字通り、夢のお話。
夢を見るメカニズムは、極端な話、寝ているときならどんな状態であっても見ると言われていて、夢が現出してくるルートが比較的解っているのは、レム睡眠時。PGO波という鋸波状の脳波が、視床下部にある端網様体や、後頭葉にかけて現れる。このPGOが海馬などを刺激して記憶を引き出し、大脳皮質に夢を映し出すと考えられている。
フラッシュバック性の悪夢はノンレム睡眠時に起こるそうだ。
んで、夢と言えば明晰夢という、脳内において思考・意識・長期記憶などに関わる前頭葉などが、海馬などと連携して、覚醒時に入力された情報を整理する前段階(夢)において、前頭葉が半覚醒状態のために起こると考えられ、明晰夢の内容は見ている本人がある程度コントロールしたり、悪夢を自分に都合の良い内容(厳密に言えば無意識的な夢と意識的な想像の中間的な状態)に変えたり、思い描いた通りのことを(実現可能な範囲内で)覚醒時に体験したりすることが可能である夢をみたいという、誰しもが、どこかそれこそ本当に夢見ながら眠りについているのではなかろうか。
さて、何か難しいことを書いてきたけど、明晰夢の特徴としては、案外目を覚ましてからも記憶していることがあるところだろうか。
私自身も何度か見たことがあるし、昨日から今日にかけて久しぶりにそんな夢を見た。
ちなみになぜ、夢だと気付いたかというと、夜中に用足しに起きて、眠り、どうも寝つきが悪いなぁ、なんて感じていて、恐る恐るまぶたをあげてみれば、そこに広がった光景が青空の元の昔の町内の風景に気付いたからだった。
まあ今でも、そんなに変わっているわけではないけど、それでもやっぱり目に見えて変化もあるわけで、その部分は昔の風景だったから、そこで夢だと気付いたわけだ。
もっとも、それでも本当に夢かどうか確かめるべく、空を飛んでみたりもして、確実に夢だと判断できたものだから、あとはもう、本当に目が覚めるまで思いのままに、夢の中だからこそできるんじゃないかと思うことをやっていた。


その中でもう一人の自分に出会ったのである。んで、初めて『自分の姿』というのを夢の中で見た。


考えてみてほしい。もし、覚えがあったらでいいんだけど、はたして夢の中の自分はどんな顔をしているだろうか、とか、どんな体型をしているのだろうか、とかを言えるかどうかということを。おそらく、たいていの人は夢の中の自分の顔を見たことがないんじゃないかと思う。
「そんなバカな」と考えた人は是非、思い起こしていただきたい。ちなみに私は夢の中の自分の容姿は、そいつに会うまでまったく知らなかった。
さて、それはともかく、そこで出会った自分であるが、設定はパラレルワールドの自分ということだった。まあ私がそうしたんだから仕方がない。いつも鏡で見る自分よりも若干、どうだったかは想像に任せるとして、どんな生活を送っている自分だったかというと、随分と幸せそうだった。見た目の年齢は私よりやや下だが既に成人になっていて、しかし家族は全員揃い、裕福でないにしろ生活に困っている様子もなく、毎日が楽しいと言っていたことが印象に残ってしまっている、と同時に、そいつが羨ましくなった。
夢と言っても明晰夢だから、私は現実のことも覚えているわけで、それと比較すると、そこにいる自分が本当に自分なのか、とさえ疑わしくなったほどだ。
要するに、私が求めるものがそれだということだ。
家族が離散することもなく、大きな一つの部屋の中で全員でくつろぎ、笑顔とともにまったりとした時間を過ごす、
そういう、ありきたりな幸福を求めてしまっているということなのだ。
それが分かったから、私は『私』が羨ましくなったのだろう。
だから、『私』とは笑顔で分かれたんだけど、その後の夢も見ている。その時はすでに明晰夢なんてどうでもよくなっていたし、なんか目を覚ましたくないな、とさえ考えていた。
気がつけば、何か狭い裏路地に入っていたのがなんともやるせなかった。
まあ、飛べるわけだから、あっさりそこから飛び立って青空に舞い上がったんだけど、そこで目を覚ましたのである。


夢の中の話を真剣に語る、というのもアレなんだけど、今日は正直言って、難しいことを考えるだけの脳の隙間がなかったと思ってもらいたい。(笑)
でも、もう少し電波な話をするなら、アレは夢じゃなくて、本当にパラレルワールドに紛れ込んでいた、って設定ならもっと面白いと感じたかもしれない。
なんともネガティブなタイトルなんだけど、実のところ、私自身、ふと『自分は立ち止まっている』と思ってしまうことが多々ある。
それは周りの同年代が結婚したり子供ができたりした話を聞いたときや、同年代じゃなくても誰かが出世した話を耳にしたとき、はたまたネット知人たちがブログ等で夢を語ったり、社会人になってこうしたい、といった風な文章を見たときに強く感じるのだ。


では、私は?


ふとそんなことを考えるのだ。
特別何を為すわけでもなく、何かを目標に立てるわけでもなく、ただ漠然と毎日を過ごしちゃいないかと感じるのだ。
もちろん、何も目標が無いわけじゃない。叶えたい夢もある。やってみたいことも存在する。
しかし、それに向かって邁進しているかと言えば、答えは間違いなく否だろう。
これでも十年くらい前はそれこそ、働きながらでも夢を追いかけていた。成りたい自分を目指していたことは確かだ。
でも、いったいいつからだろうか。
夢という目標を諦めたわけではないのに追いかけなくなったのは。
周りが夢や目標を語り、幸せを手に入れる姿を私はどこかただただ傍観者として見つめているだけだ。
私もそうありたい。
と、思っているのに現実には行動を起こしていない自分がいる。
下賤な話をすれば自分自身の懐具合が行動を妨げている要因の一つではあるが、それはあくまで『一つ』であって主原因ではない。
何故、私は夢を追いかけることも幸福を求めることもしていないのだろうか。
コミックマーケットのようなイベントに参加できたら。小説家になりたい。結婚願望もある。
そう考えている自分がいるのに、懐具合の所為にして、全てを諦めている振りをして自分自身を偽って殻に閉じこもってしまっている。
それを自覚していることに諦観にも似た嫌悪を感じるのだ。
どうしてやりたいことをやろうとしないのだろうか。
確かに何もしなければそれは楽だ。しかしその『楽』はいずれ『落』に変わる。それが解っているのに私は行動を起こせないでいる。
どうやったら起こせるのだろうか。
切羽詰まった時?
たぶん違う。なぜなら夢を追いかけることに関して言えば、『切羽詰まった』状況はあり得ないからだ。
スイッチが切り替わる時、なのかもしれない。
しかしどうやって切り替えるのだろうか。ある日突然切り替わるのかもしれないが、残念ながら今の私に切り替えるだけの気力が無いように感じる。
働いてはいるが無気力疾患に近いニートと似たようなモノなのかもしれない気がする。


周りはみんな動いているというのに、いったい私はいつまで立ち止まっているつもりなのだろう。
本当は自分を変えたいはずなのに。
変わるための行動を取らなきゃいけないのに。
やり方も分かっているのに。
私は……
私は今日まで正月休みで明日が仕事始めなのだ。
てことで今日は正直暇だった。なんせ何もやることが無いし、軽く燃え尽き症候群にかかっているから。
と言うのも、タイトル通りで今回の年末年始のお休みでとにかく絵を描きまくった。
年末は25日だけ休んで、26日から今日の午前中までとにかく描き続けて、個別年賀状三本(内一本はちょっとしたリニューアル版)に、本館関連のレイアウトを元旦にやって、同時進行でるーみっくサイドの着色。二日にるーみっくサイドを完成させたわけだけど、今度は同時にハルヒサイドに着手。
今日の午前中に配信完了して、実に5枚のイラストを十日足らずで作ったわけだから、これはたぶん私の新記録。いまだかつてそんなことはやった覚えが無い。
昔、イラストカットのみに走る前はマンガを描いていたんだけど、だいたい16ページで二週間くらいかかっていて、その時に匹敵するくらい頑張ったんじゃないかと思う。当時は学生時代だから体力も時間も今よりはるかにあったし、時間の流れも遅く感じていたから可能だったはずなんだけど、まさか今の状況で十日あまりで五枚も描けるとは思ってもいなかった。
しかしまあ気がつけば、七日あったはずのお休みがもう終わってしまう訳で、やっぱ体内時計は歳とともに、どんどん加速していっているなぁ、と感じてしまう今日この頃。
はてさて。ここ一週間ほど、本当にお絵描きに没頭したんで今度はちょくちょくラノベの方をやっていこうかな、などと呑気に考え中。
でもオリジナルは全然アイディアが浮かばないんで、本館はまだまだ休載が続きそうだけど、一月中に別館の方で何か話をあげたいなぁ、と考えている。


さ、明日からはいつもの日常が戻ってくるわけだけど、どこか億劫だ。
何故かと言えば、最近、自分が何のために働いているのかが分からなくなってきていて、と言うのも、生活費を家に入れているってのに、(元旦の昼食と二日の親戚参りを除く)ここ一週間は自分の金で食費を賄っているし、食器洗いや洗濯もしている。これなら私が生活費を家に入れる必要ないんじゃないかとさえ考えてしまった。
本来、それをやるべきである同居人の妹は我が子を親戚に預けてまで、1月2日以後、毎日毎晩遊び回って無駄に浪費しまくっているものだから、本気で「何で私だけがこんなに我慢を強いられなきゃならないんだろ?」と思い悩んでしまったほどである。
正直なところ、自暴自棄一歩手前の心境にあることは否定できない。今日の午前中までは絵を描いていたから、その気持ちは中和されていたんだけど、特別やることが無くなった今、完全にキレる寸前であることを自覚してしまった。
ホント、「何で私だけ?」って感じだ。
妹どころか、甥はまだ子供だから仕方ないとしても、いい大人になった親兄弟ですら何も我慢していない。やりたいことをやりたい放題やっている。

どうして私だけ自分のやりたいことをやっちゃいけないんだろう?
どうして私だけ家にこもって出費を抑えなきゃいけないんだろう?
どうして私だけ稼ぎの大半を、自由に使っちゃいけないんだろう?
どうして私だけ……

それを強く感じる。お絵描きや執筆していない時は車を運転している時でさえ、そう考えてしまう自分が居ることに気がついた。
もしかしたら私は近い将来、潰れるかもしれない。
それなのに、それでもいいかと思ってしまう自分もいる。
これはヤバいと思う。今はまだ「ヤバい」と考えられるから救いがあるかもしれないけど、それさえも失せてしまったら私はどうなってしまうのだろうか。
今晩もまた、妹は遊びに行くつもりだ。これで元旦から四日連続だし、年末も29日、30日は午前様だった。
いったいどこにそんな金があると言うのか。生活費を遊ぶ金に使っているとしか思えない。もし、そうだとするならば本当に私がお金を家に入れる必要があるのか?
ときどき、生きることがとてつもなく憂鬱に感じることがあるんだけど今、新年早々、パロメーターはマイナスの底辺あたりを大きく停滞してしまっている気がする。


二日連続愚痴で申し訳ないんだけど、愚痴ってのは溜め込むと悪い方へと行ってしまい良くないってことで、吐き出して誰かに聞いてもらうと楽になるって話だから、今日も吐き出させていただきました。
二日連続でどんよりした話で申し訳ございませんが、見てくださった方に心より感謝申し上げます。
重い話はやめておこう。
と言っても実のところ、私は年末から今日にかけて、テレビはおろか新聞も見ていないのだ。だから現在の社会状況がどうなっているかはさっぱり分からない。
でもまあ、今日までは分からなくても何の問題もないだろう。
世間が動き始めるのは明日からだ。明日からはちゃんと情報収集に努めないといけないな。でないと社会に付いていけなくなるし、それは社会人として失格だから。
ちなみに私は『明後日から』なのだが。(笑)
明日までお休みなのだ。
んで、明日はちょっと注文していた本が届くので楽しみである。2100円とは奮発したと思うのだが、幸いなことに親戚に子供にお年玉を6人にやらなきゃいけない予定だったところ、2人で済んだから、ちょっとだけ懐具合にゆとりがあるので全然OKだったりする。
……去年の今日だったら、2100円を『奮発』なんて表現しなかったろうけど、一年で状況が一変したんでそれは仕方が無い。


さて、重い話をするつもりはないけど今日はちょっと愚痴を二つほど。
あ、人の愚痴なんて聞きたくない、って人はここまでで読むのを止めた方がいいですよ。精神衛生的にも。


まず一つ。
2008年から思っていることなんだけど、とにかく年賀状が着くのが遅い。
出してくれた人じゃなくて配達している日本郵政のことだ。
民営化が2007年10月からで、民営化して最初の年が2008年だったわけだが、とにかく遅い。
2007年までは朝の遅くでも10時までには来ていたのに、今年は元旦ですら午後になってからだった。職務怠慢もいいところだ。一般家庭がどういったものかは知らないけど、家は元旦最初の食事である昼食をとりつつ、食べ終わったところで一息つきながら年賀状を家族分けしていたのに、食い終わって、さらに一時間以上経ってから第一便だったのである。
民営化の弊害がここに一つあって、窓口が一本化してないので盥回しにされることも我慢ならないんだけど、年に一回の年賀状くらいちゃんとやれっての。まだ国営のときの方がサービス良かったぞ。


で、もう一つ。
これは昨日のことなんだけど、久しぶりに心の底から頭に来た。
言うに事欠いて、しかも自分を棚上げして、私に説教という名の文句を付けてきた、それも酒の力を借りないと何もできないボンクラ身内がいたのである。
本気で憤慨した。
いったい誰の所為で私がどれだけの我慢と苦労を重ねていると思っているんだ。それを忘れたとでも言うつもりなのか、というやつである。
忘れてなくて言っているとすれば余計にタチが悪いし、そいつはどうもそんな風だった。
心の底から縁を切りたいと考えたのは初めてだった。
実のところ、今、私は母と物凄く険悪な状態にあり、これで3年ほど口を聞いていないどころか目も合わせていない。同居していなくて心底良かったと思う。毎日、あんな奴と顔を付き合わせにゃならんと思うと悪い方向で過ちを犯す自信があるほどだ。
とある事情が発端なのだが、原因は母親にある。誰がどう聞いたって間違いなくそう答える。もっとも私は内輪も内輪の話だから誰にも話していない。それこそ弟妹にも。一人だけ例外がいて、母方の伯父さんなんだけど、この人は私とまったく同じ意見なのである。
ところが、母親はそれをまったく自覚することなく全責任を私に押し付けてやがるのである。自分のことしか考えていない証左だ。我が子に不幸を押し付けることを厭わず、己の幸福追求しかしないような奴だから当然と言えば当然なのかもしれないが。
で、その身内は私に「母親と話をしてみたら」とか「母親をもっと大事にしてやれ」とか言いやがったのである。
ふざけるな、と言ってやった。完全に堪忍袋の緒が切れた。
そいつ自身が母親を大事にしていないくせに何様のつもりだ。それに誰があんな奴と話したいものか。向こうが反省して頭を下げて謝ってこない限り、私から話すつもりなんぞ蟻の触角の先ほどもない。
こういう風に書くと「自分を生み育ててくれた母親に対して、なんて不敬な奴だ」と言われるかもしれないけど、なら私の立場になってみろ、と言いたい。
絶対に信用できなくなる。生み育ててくれたからと言ったってモノには限度がある。その限度を越えている以上、不敬だとも親不孝だとも思わくなるのだ。


せっかく年が明けて、少し気持ちが晴れやかになっていたのに、その気持ちは完全に吹き飛んでしまったのがなんとも虚しかった。
ようやく年賀状も一段落して、本館の年賀イラストの目処も付きましたし、別館はまだ手つかずだけど、なんとか構図が浮かんだんで、これで一息つけました。
と言っても、個人宛年賀状にかかるんで、以前、25日までブログ更新は休日だけー、なんて言ってましたけど、たぶん、年内は、あと27日と31日だけになりそうな勢いです。(ヲイ)
というわけで、今日は一日、お絵かきお休み♪
明日からまた気合入れて描きますですよ。(*⌒▽⌒)b
とりあえず、サイト繋がりの個人向け年賀状は今のところお三方でございます。もちろん、裏絵はサイトに掲載しない予定のものですので、世界に一つだけの年賀状となりますよ。(タイトル古っ!)
でも一人はとっくに私のことなんて忘却の彼方かなぁ。去年年賀状をもらったんで今年も送るって意味なんですよね。
さて、
もし、今、送付しようとしているお三方以外かつ別館繋がりの方で、私からの年賀状がほしい、という寛大な方がおられましたら本館もしくは別館のメールフォームより、郵便番号、住所、氏名、年賀状交換希望かどうか、選択ジャンル(るーみっくかハルヒか)を明記の上、お送りください。
裏絵は一応、サイトに掲載しない構図にする予定です。リクエストは誠に勝手ながら受付致しませんのでご期待に添えられるかどうかが甚だ疑問であることはご了承ください。
ちなみになぜ、本館繋がりの方が対象外になるかと言いますと、メルアドを知っていれば、それと同じ構図が元旦にメールで届く予定だからです。(コラ)


というわけで、今年も残り一週間となりました。
クリスマス? 何それ食えんの?
今年は、日本国内で史上初めて民意による政権交代が為されて、新しい日本の誕生を予感したわけですが、その実現のためには、まだ来年の夏を越えないと確実なものにはならないことを国民全員が知っておく必要があるでしょう。
だから民主主義の敵である大手マスコミは盛んに民主党大パッシングを張っているのです。
民主党が良いか悪いかは、これから判断することであり、今はまだ、静観すべき時で、現時点で早急な結果を求めるべきではないのです。なぜなら政策施行はどう足掻いても来年度からなのですから。
それを解っていない連中が大手マスコミの扇動という集団心理に乗せられて、悲観的に、またネガティブになり過ぎるあまり、自分たちの選択に疑問を持っているようでございますが、だから結果が出る前から予知能力者でもないのに決め付けるなっての。
しかし、毎日毎日、公共の電波を使って現政権の粗探しと攻撃を続けることに余念がない大手マスコミ共のようですけど、それでも案外、国民は50代以下になれば粗探し情報を全然見てなくて、現政権が何をするかを注視しているってことを今日知りました。本当に良いことだと思います。
なんとなく解釈が難しいんですけど、そのまま受け取るなら、ガソリン税はそのままだけど暫定税は、とりあえず、来年度は無くなって少なくとも一年はガソリンが安くなりそうですし、環境税の導入は2011年度からっぽい気がします。ま、不況下での増税は絶対にやっちゃいけませんが、こればっかりは今は何とも言えません。
公立高校無料化も来年度からのようで、国地方ともに(0歳~18歳が対象の)扶養控除廃止と引き換えで子供手当も(半額ではございますが)支給されるようです。2011年度から満額になることを願いましょう。
高速道路の無料化はまずどこから何だろう?
ちなみに扶養控除廃止による増税分は子供手当と公立高校無料化でお釣りが来ますので、これもテレビ新聞の扇動報道に惑わされないように♪


来年はいったいどんな日本になるのでしょうか。
私は2005年の時点で日本の将来に暗雲が立ち込めていることを想像して、少なくとも去年まではそのような日本に成りつつあったのですが、なかなかどうして、これからの日本を背負う世代は案外しっかりしてますよ。特に2005年時はB層でしかなかったけど今は明らかに違う団塊Jr世代は。
テレビ新聞のパッシング報道を鵜呑みにすることなく、合間に流される『政策』の事実だけを見つめ、それが自分たちにどのような影響を及ぼすかを見定めている段階なのですから、50代以上の世代よりも『自分の意思』というものをしっかり持っています。というと年配の方に怒られるかもしれませんが、それを認めてほしいな、という感じはします。
今年より来年、来年より再来年と日本をより良くするための行動を、年配の方ではなく、これからの日本を背負う世代、もちろん、私も含まれますけど、その人たちが歴史や文化が大切なのは確かなんだけど、しかし悪しき慣例は打破して、その時々で自分の信念ではなく状況に基づいて動くことが、将来を良いものに変えていけるのではないかと思います。
というか、そういう国に変えていくことが本当に大切なんじゃないかと、今年は痛感しましたね。
世界初、だったかどうかは覚えがないけど、トヨタが国内では間違いなく初めての電気とガソリンの併用で走るハイブリッドカー・プリウスを販売してから実に十年の月日が流れた。
当時、世間が震撼した(笑)25㎞/ℓ。
車を常用する人間にとっては夢の数字だけど、当初のデザインとあまりに静かなエンジン音のため、普及にはなかなか至らなかった。
しかし、現在のエコ思考から最近は徐々に広がり始めている。何と言っても世界のトヨタが総力をあげて作り上げたものである。安全性、利便性は他の自動車会社の追随を許さないのは当然で、慣れてしまえば下手なガソリン車に乗るよりも快適なことは私が保証できるのだ。
なぜなら、私自身がハイブリッドカー・プリウスに乗っているから。
別に私はトヨタを持ちあげるつもりはないけど、昨今のエコロジー思考からすればプリウスは今のところ、最先端を走っていることだけは確かだたと思う。普通のガソリン車と比べるなら温室効果ガス75%カット。ガソリン代は半額。多少税金はかかると言っても、平成13年度以後の登録であればエコカー減税の対象にもなっている。
私自身はプリウスには不満はない。ただ残念ながら世間様、とりわけ見識家ブロガーの方々からはすこぶる評判が悪いので何とも悲しいものがある。
製作過程で普通車以上にコストがかかり環境に悪いとか、静かな走りだから人身事故が絶えないだろうにそれを公表していないとか、ガソリン代は安く上がるだろうが動力源バッテリーが半端なく高い上に短命だとか。
まあ、一部間違いじゃないんだけど、それでも私はハイブリッドカードライバーとしてこの意見には真っ向から反論するのである。


まず、普通車以上のコストと環境への悪影響は確かにあると思う。でも、普通車以上のコストと言っても、それは普及が思ったより進まなかった『今』だけの話で大量生産が可能になれば、おそらくはコストはもっと下げられる。これまではトヨタ独占の技術だったんだけどホンダがインサイトを発表したし、日産、マツダも開発に着手している。となればいつまでもコスト高でいられるわけがない。あと環境に悪影響と言っても、製作時はそうかもしれないが、市場に出回り実用化されれば温室効果ガス75%カットである。あっという間に普通車に比べれば環境に優しくなるのは目に見えているし、製作時の分は、そこで充分回収できると言っても過言ではない。
そして、人身事故についてだが、これはちょっと運転マナーの悪い人間を想像しすぎだと思う。プリウスに乗る人間は音が出ない車だと知っているのである。だから普通車以上に気を使う人が大半だし、優良ドライバーでないとこの車の運転手は務まらない。もうちょっとそこを見てほしい。むしろ、普通車の事故の方が遥かに多い。それはドライバーが「歩行者が気付くだろう」という危険予知を怠っている証拠に他ならないとは言えないだろうか。ハイブリッドカードライバーは歩行者に注意する。だから隠蔽しているだろう、と言われるほど人身事故が起こっているとは思えない。現に私は一度もプリウスで人身事故を起こしていないのだ。
んで、最後の動力源バッテリーであるが、はっきり言ってこれはトヨタ自身の予想をいい意味で裏切ったのだ。
販売当初は5年とか100,000㎞とか言われたんだけど、実のところ、初期型プリウスでさえ動力源バッテリーは5年も100,000㎞も越えたのである。利用している私が言うんだから間違いない。とっくに100,000㎞は過ぎてるし、2001年から乗ってるから今年で9年目。でも今のところ、何の異常もない。ごくたまに誤作動を起こすことはあるけど、走行中の異常は一度もなかった。それと、動力源バッテリーなんだけど販売当初は50万かかったものが今では10万ほどなのである。ガソリン代を始めとした維持費を鑑みれば決して普通車より割高だとは言えないのではないだろうか。


もう一度言うけど、私は別にトヨタをヨイショするつもりはない。
良いものは良い、悪いものは悪い。
という話である。
というわけで、批判的に見る人はまずプリウスを利用することをお勧めする。もちろん安くはない。250万は必要になることだろう。
250万を自由に使える状況にあるかどうかがまずは第一関門なんだけど、私はたまたま、当時、自腹で250万を自由に使える環境にあった。まあ、プリウスを買ったらほとんど貯金が無くなったけど。(笑)
でもどうしても欲しかったから躊躇わなかったのである。それだけ私はプリウスに未来を感じたのだ。
乗れば、決して、批判するような車ではないことが理解できると思う。
もっとも、利用し、それでも批判するようであれば、それはそれで認めなくちゃいけない欠点なのだろう。
というか、利用してその欠点をトヨタに伝えればいい。
そうすればもっといいものができると思うのだが。
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