随分と重い話なんだけど、私、つい先日、小学三年生の甥に『死』というものについて私なりの見解を教えた。
9歳の子供にはまだ早いかもしれないし、そんなことを教えれば母親である妹がいれば非難轟々だろうから、むろん、妹のいないところで。
というか、本来、しつけとか常識とかは親が教えるものだと思うんだけど、全然、教えないから私が教えなくちゃならなくなるわけで、少しは親としての務めを果たせと言いたい。
ちなみに『平仮名』とか『数字』とかも私が教えている。ついでに人にものを頼む時の「お願いします」、してもらったときの「ありがとう」、他人の家に入る時の「こんにちは」、出るときの「さようなら」もすべて私が教えた。
言っておくが私は、実の父親ではないし、妹という母親がいる現時点で父親になるつもりも毛頭ない。だから『常識』以外は何も教えていない。そりゃ悪いことをすれば叱るくらいはするけど、それは『親』の責務じゃなくて『大人』の責務だからである。
とと、話を戻すが、どうして私が甥っ子に『死』について教えたかというと、会話をしているとどうも物騒な単語が出てきて仕方がないからだ。
「殺す」だの「死んでしまえ」だの。
もし『命』の概念というか意味を知っていれば、そんな簡単に口にできる言葉じゃないはずなのに、言葉にするということは知らないからに他ならない。
だから教えた。
今、自分が使っている言葉が何を意味するかを、自分自身で想像させて伝えたのである。
『死』とは何か。
今生の別れとか難しい話じゃなくて、『死』とは自分自身の消失を指すものだということと、『死』の瞬間は、(これは想像でしかないのだが)苦しくもがくものだと伝えたのだ。
んで、それを甥っ子の頭の中で想像させた。もう9歳だから『痛い』とか『苦しい』の感覚は分かっている。
正直、泣き出すんじゃないかと思っていたのだが、泣くことはなかったけど、深刻に受け止めてくれたようでホッとしている。
以来、物騒な言葉は言わなくなったし、これは当たり前のことなんだけど「死んだら生き返ることはできない」と言っていたことが何よりも嬉しかった。
そうなのだ。
死んだ人間が生き返ることは絶対にあり得ない。そんなものはゲームか漫画と言ったフィクションの世界の話であり、現実ではあるはずがないのである。
それをちゃんと理解していることに、この甥っ子の将来に、一つ、希望というか非行に走らない道筋を作ってやれたんじゃないかと思う。
教育とは何か。
それは子供が真っ当な人間、すなわち『人の道を外さない』人間に成長してもらうための指針である。
人生にレールという将来を引いてやるのではなく、子供が自分自身の道から足を踏み外さないための誘導である。前に進ませるんじゃなくて、横ではみ出さないように支えてやることである。そして支えてやるのが『大人』の役割である。
近いか遠いかは知らないが、やがて甥っ子も妹が再婚すれば、その新しい継父の元へと行くことだろう。その継父が真っ当な人間であることを祈るばかりである。なぜなら、私の役目はそこで終わり、それ以後のことは私ではない別の誰かが担当することだから。
私自身は現在、独身であるし、将来的にも伴侶を得られるかどうかは現時点では正直言って疑わしいことは認めなくちゃならない。
なぜなら、自覚もあるんだけど、伴侶を得るための行動をしていないから。というか行動できないから。
周りは「妹と甥っ子がいるから、なんて言い訳だ」と言う。
しかし私はあえて反論する。「じゃあ、私の立場になってみろ」と。
自分で言うのもなんだが、いったい、自分の子じゃない子供のために一生懸命、頑張っている人間がどれだけいると言うのか。
自分を聖人君子だと思ったことは一度もないが、悪く言われるのはどこか腹立たしい。
だから私は待つ。自分の時間と金銭的なゆとりができるまで。
その結果、生涯、独身で過ごす羽目になって、孤独死が最期だとしても、いまわの際は誰ひとり恨むことなく『死』を迎えようと思う今の気持ちを忘れないでいたい。
あとどれだけ生きられるかは正直分からないが、『死』について甥っ子に教えながら、ふと、そんなことを考えたのである。
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