昨日は実に私的な暗い話をしたので、今日はいつも通り、独断と偏見に満ちた社会情勢を語ってみようと思う。
というわけで、前に少し言ったんだけど、ドバイショックを機に巷では二番底が来るのではないかというネガティブな憶測が蔓延しているようではあるが、はっきり言っておこう。
私は二番底が来るとは思っていない。
もちろん楽観視のつもりはない。根拠が存在するからである。
なぜなら世界は最悪期を脱したと言われ始め、新興国を中心に経済成長率はプラスに転じている。もちろん、そのプラス成長も一昨年の十月以前に比べれば半分ほどではあるが、それでもプラス成長に転じているということは、そこを中心に経済戦略を組み立てていくことにより、日本も不況の荒波を鎮静化させることができるはずである。
具体的には、プラス成長の新興国でどんな需要があるかをリサーチして、その分野での促進を促すという、商売における基本中の基本をやればいいだけの話だ。
インドや中国と言った市場は半端なく、ここだけで全世界人口の三分の一が集中しているし、昔は貧困大国であったインドも今はまったく違う。世界での発言力が増してきているということは、それだけ国力を付けてきたことの裏返しだ。
さらに日本には今、好材料が飛び出している。
それは藤井財務大臣が辞意を表明し、菅直人副総理が後を受け、円高容認派の藤井氏がいなくなることにより、円安が加速される可能性が出てきたからだ。現に今日の円の終値は93円台になっている。菅財務大臣は95円が理想と言っていたから、少なくともそこまでは、今週中に下がると思われる。
急激な円安はさすがにマズイ気はするが、100円を越えてくれば新興国を中心に輸出が活気づき、加えて、(予算で子供手当等の給付策が成立するという前提で)春が終わる頃に、消費喚起による内需拡大も視野に入ってくる。
今年の終りの方には景気が上向き始め、2011年初頭は(私はあんまり好ましくないと思っているんだけど)地デジ特需が待っているし、子供手当についても今年の倍になる。
加えて、(たぶん)高速無料路線が増大することにより、運送会社のコストダウンから可処分所得が下がらずの物価安が更なる消費拡大が見込まれることだろう。
これでいったい、どこに二番底の不安が存在するというのか。
2010年度予算執行前の3月の後には景気回復の足音が聞こえてくるじゃないか。
しかし、残念ながら日本国内にはやはり悲観論があまりに根強い。
日本の国内企業の9割を占める中小零細企業の、特に下請け気質の経営者たちは大局を完全に見失ったようである。
大企業のおこぼれに授かる体質から抜け出せないから、大企業の言いなりになって、「回復までにはまだ時間がかかる」という言葉を真に受けてしまっているのだ。
ましてや、民主主義の敵である大手新聞テレビの扇動報道しか知らないから世界が見えていない。せめて日経新聞の経済欄くらいに目を通していれば、「どうして我が社にはまだ景気回復の予兆が現れないんだろう?」と疑問を感じるはずなのだが、感じていないのは地方ローカル紙程度しか見ていないからとしか言いようがない。そんなものから得られる情報なんて微々たるものの上に、どうでもいいものばかりなのだから、やはり自分で情報を集めるようにならないと、本当の回復基調は見えてこない。
サラリーマンならそれでも構わないかもしれないが、経営者は自社を守り、発展させる使命を背負っているのだから偏った情報ばかりを享受するのではなく、幅広く、色々なアンテナを出して自分で情報を得なければならないし、また、そういう経営者でなければ今後は立ち行かなくなる。
その点で、私は、今の勤め先の社長がポジティブで前衛的な姿勢を見せているものだから信頼できるし、未来があると思えるのである。だからこそ、前にも言ったが、今の仕事にやりがいを感じているのだ。やるからには将来に希望が持てるところで働きたいと思うものである。
話は逸れてしまったが、要するに悲観論に支配された連中が多すぎるのだ。それは経営者のみならず、労働者や消費者である一般市民にも数多くいる。
その根拠が何かと言えば、毎日毎日、反政府運動と恐怖扇動に明け暮れる大手マスコミの流す報道と呼べない大本営発表だというから、どうしようもない。
そして、その不安感が必要以上に物事に対して尻込みしてしまって、ますますの景気悪化を招いているのである。
もし、来るとすれば、これが二番底の正体だろう。
ということは、裏を返せば、二番底は世界的不況という津波ではなく、ネガティブ思考の人災という妄執に招かれて、ということに他ならない。
つまりは、二番底は来るのではなく作られるものだということだ。
本当に二番底が来てほしくないなら、日本人は来ないよう、努力すべきである。
そしてその努力とは必要以上の節約ではないし、また姦言に乗せられた投資でもない。自分に課せられた仕事を希望を持ってやりぬことである。
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